世界遺産登録運動とまちづくり

 





 はじめに

 ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産は、現在、世界的に顕著な普遍的価値(Outstanding Universal Value)を有する遺跡、建造物群、モニュメントなどの文化遺産が628件、同じく世界的に顕著な普遍的価値を有する自然景観、地形・地質、生態系、生物多様性などの自然遺産が160件、文化遺産と自然遺産の両方の登録基準を満たす複合遺産が24件の合計812件(137か国)である。



 日本の世界遺産



 日本の世界遺産は、「知床」、「白神山地」、「屋久島」の3件の自然遺産、「日光の社寺」、「白川郷・五箇山の合掌造り集落」、「古都京都の文化財」、「法隆寺地域の仏教建造物」、「古都奈良の文化財」、「紀伊山地の霊場と参詣道」、「姫路城」、「原爆ドーム」、「厳島神社」、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の10件の文化遺産の合計13件である。

 これから、5~10年以内に世界遺産に登録する候補物件としての暫定リストには、現在、「古都鎌倉の寺院・神社ほか」、「彦根城」、「平泉の文化遺産」、「石見銀山遺跡とその文化的景観」の四物件が登録されている。

 このうち、「石見銀山遺跡とその文化的景観」については、2006年1月に、ユネスコが世界遺産登録申請書類を受理、2007年6~7月に開催される第31回世界遺産委員会で世界遺産登録の可否が決まる。「平泉の文化遺産」についても、2008年の世界遺産登録をめざして着実に準備が進められている。

 また、今後暫定リスト入り、そして、正式な世界遺産登録が期待されるのは、自然遺産関係では、環境省と林野庁が既に見解を示している、東洋のガラパゴスにもたとえられ特異な島嶼生態系を誇る「小笠原諸島」、亜熱帯生態系や珊瑚礁生態系、海中景観を誇るトカラ列島以南の南西海域に展開する「琉球諸島」の2物件である。

文化遺産関係については、暫定リスト記載物件の世界遺産登録が実現していくことにより、残り数も少なくなっており、文化庁は、新たな物件を国内で選定しなければならない状況にある。

 日本が世界遺産条約を締約したのは1992年であり、世界遺産の数も世界的に見ると15位、暫定リストへの登録物件数も、イタリア、スペイン、中国、ドイツ、フランス、イギリスなどの上位国と比較して見劣りし世界遺産登録への積極的な意欲と暫定リストの充実が必要である。



 新しい地域づくりやまちづくりの試み



 わが町、わが地域の誇れる自然環境や文化財を世界遺産にめざす世界遺産登録運動は、検討段階のものも含めると全国で約50近くあり、その活動は、年々、活発化している。

 そのねらいや思惑にも違いはあるが、世界遺産になる為の登録基準などの登録要件など、国際的な評価基準にあてはめて、その真正性や完全性を検証してみることは、結果はどうであれ、決して無駄な作業にはならないと思う。

 世界遺産になる為の登録要件としては、

 第一に、世界的に顕著な普遍的価値を有し、同分野を代表する比類ないものかどうかである。

 第二に、世界遺産の登録基準(文化遺産関係には6つ、自然遺産関係には4つの10の基準)を一つ以上、満たしていなければならない。

 第三に、恒久的な保護管理措置が法律的にも、また、計画的にも、担保されているかどうかである。

 地域遺産の世界遺産化を考えること、また、それに向けての活動は、まさに、真の地域づくり、まちづくりそのものである。

 世界遺産登録運動のさきがけは、静岡県と山梨県にまたがる「富士山」と広島の「原爆ドーム」である。 

 富士山については、1992年にわが国がユネスコの世界遺産条約を締約した頃に、地元の熱心な市民や自然保護団体の方々を中心に「富士山を世界遺産(世界自然遺産)とする連絡協議会」を組成、246万人の署名を得て、1994年には「富士山の世界遺産リストへの登録に関する請願」として国会請願の段階にまで達した。

 しかし、「富士山の世界遺産化については、ごみやし尿など環境保全の対策に問題がある」との指摘もあり、富士山を世界遺産にする旨の政府推薦はされなかった。

 2005年4月に「富士山を世界遺産にする国民会議」が設立され、富士山の文化的景観を世界遺産にするべく、文化遺産登録をめざして仕切り直しの動きが活発になっている。

 「原爆ドーム」は、当初の暫定リストには入っていなかったが、地元の民間団体が立ち上がり、全国165万人の国会請願署名など、また、文化財保護法の史跡指定基準をも改正させて1995年に国の史跡に指定、同年、暫定リスト入りし、1996年に世界遺産に登録された。

 過去五年間では、北海道の弟子屈町の商工会青年部の人たちを中心とする「摩周湖世界遺産登録実行委員会」の活発な活動など、その後も、全国各地で、世界遺産登録運動の声が次々とあがっている。当初は民間主導のものが多かったが、最近の傾向としては、県庁や市町村など行政主導のものが多くなっている。

 山形県の「近未来やまがた・世界遺産育成プロジェクト」は、将来、山形県が世界遺産への登録を目指す育成候補地として「民間の山岳信仰文化が育んだ出羽三山等の文化財と風土」を2005年3月に選定し、世界遺産化をめざそうとしている。

 また、群馬県の「旧官営富岡製糸場」は、日本の近代化の原点、発祥の地として、また、アジア諸国の産業発展に貢献した産業遺産を世界遺産にすることを目的にしている。2005年7月に国の史跡や2006年4月に国の重要文化財に、また、白砂川の河岸段丘に広がる山村養蚕集落であった六合村赤石地区が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されるなど、シアリアルな世界遺産登録に向けて着実に前進している。

その他、福井県小浜市の「神仏習合と海民の聖地、若狭小浜」、奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳などの「明日香村の文化遺産」、広島県尾道市の「尾道の文化遺産」、大阪府堺市にある日本最大の前方後円墳である「仁徳陵古墳」、佐賀県伊万里市の佐賀鍋島藩の御用窯がおかれていた「大川内山」などが名乗りをあげている。

 経済団体主導のものとして、金沢経済同友会による「石川県に世界遺産を」、松本商工会議所の「松本城」、関西経済同友会の「大阪城と上町台地の遺産群」などがある。

 民間の有志によるものでは、「長崎の教会群を世界遺産にする会」、同じく、長崎県の端島の炭鉱遺産「軍艦島を世界遺産にする会」、熊本県の緑川流域の石橋群などの「肥後の石橋を世界遺産にする会」などがあげられる。



世界遺産の理念や考え方



 これらの運動が、官民一体になれば、地方からの強力なパワーにつながると思うが、忘れてはならないのは、「世界遺産条約」の理念や考え方である。世界遺産化は、結果的に地域振興にはなっても、本来、経済振興や観光振興を目的にするものではなく、人類にとってかけがえのない文化遺産や自然遺産を保存・保護することが重要であるとの観点から、国際的な協力および援助の体制を確立することが目的であり、未来世代に責任をもって継承していかなければならないものである。

 推薦や登録をゴールとするのではなく、関係行政機関や地元住民などが同意一体となって、長期間にわたって保護管理しモニタリング(監視)にも尽力していく持続可能な協働(コラボレーション)がきわめて大切である。

 従って、本来は、目先の利益や不利益などを論ずるべきものではないが、ユネスコの世界遺産になることによって、

 第一に、世界的な保全意識が一層高まる。

 第二に、郷土を誇りに思う心、ふるさとを愛する気持ちなど、地元、そして、その地域に住む人、働く人、学ぶ人、更には、世界遺産地出身の人達の心理に及ぼす意識が高まる。

 第三に、世界的な関心、知名度、認識度の向上が図られる。

 これらによって、観光入込み客数の増加、これに伴う観光収入の増加、雇用の増加、税収の増加など地元並び周辺の市町村にもたらされる広域的な地域振興効果や経済波及効果などが挙げられる。

世界遺産地の世界遺産登録前後の観光入込み客数の推移を分析してみると、最近では、「世界遺産登録をめざす」と新聞やテレビ等のマス・メディアが報じる話題性の段階から旅行商品の企画が始まり、新たな観光需要が創出される。それも、日光、京都、奈良、姫路、広島、宮島など観光地として既に成熟化している世界遺産地よりも、知床、白神山地、白川郷・五箇山の合掌造り集落、紀伊山地の霊場と参詣道、屋久島など過疎に苦しむ中山間地域において地域振興効果が高いことが観光統計にもあらわれている。

一方、新たに発生する可能性があるオーバー・ユース(過剰利用)などのツーリズム・プレッシャー(観光圧力)など、あらゆる脅威や危険に対応した危機管理を中長期的な保護管理計画に反映させておく必要がある。

具体的には、どこの観光地にも共通することでもあるが、観光客のマナーの問題として、

 ① 禁止場所での喫煙、
 ② ゴミの投げ捨て、
 ③ 立小便、
 ④ 自生植物の踏み荒らし、
 ⑤ 民家の覗き見など


受入れ側の問題として、

 ① 慢性的な交通渋滞、
 ② 道路標識の不案内、
 ③現地ガイドの不足、
 ④ 宿泊施設などの受入れ施設、

 総体として、


① 自動車の排ガス、ゴミ、し尿などの環境問題、
 ② 新たな施設建設に伴う景観問題などが各地で表面化している。


なかでも、景観問題は、国内外の世界遺産地で深刻化している。例えば、ネパールの「カトマンズ渓谷」(文化遺産 一九七九年世界遺産登録)は2003年に、ドイツの「ケルン大聖堂」(文化遺産 一九九六年世界遺産登録)は2004年に、その都市景観問題から、それぞれ「危機にさらされている世界遺産」(危機遺産)に登録されている。

「カトマンズ渓谷」の登録範囲は、パタンのダンバール広場など七つの遺産群から構成されているが、無秩序な都市開発の為、その類いない建築デザインは、消失する危機にさらされている。

ケルン市のシンボルともいえる「ケルン大聖堂」(高さ157m)は、ライン川を挟んで対岸で進められている高速新線ICEの駅周辺のRZVKタワーなど高層建設プロジェクトによる都市景観の完全性の喪失などの理由から危機にさらされている。

 ユネスコの危機遺産リストに登録されている物件は、現在、28の国と地域の34物件(812物件の4.2%)であり、危機遺産になった理由は、これまでは、風化や劣化など遺産自体が抱える固有の問題、地震などの自然災害、戦争や紛争などの人為災害がほとんどであったが、都市開発や地域開発に伴う景観問題が危機リストに登録される理由になったのは、ここ最近の傾向である。

 「ケルン大聖堂」は、ケルン市当局が、ユネスコへの諮問機関であるICOMOS(国際記念物遺跡会議)の勧告を無視し遵守していないこともあって、2006年7月にリトアニアのヴィリニュスで開催される第30回世界遺産委員会で、「世界遺産リスト」からの抹消が検討される。世界遺産条約採択34年の歴史のなかで、終局的な「世界遺産リスト」からの抹消になった不名誉な事例はなく、景観の顕著な事例に該当する登録基準ⅳの削除で留まれば幸いであるが、このままでは、「ケルン大聖堂」の真正性そのものの価値が損なわれかねない。

 一方、国内の世界遺産地、京都市、宇治市や広島市などでも同様の問題が起こっている。京都市では、「古都京都の文化財」(京都市、宇治市、大津市)を構成する十七社寺と城のうち、京都市の銀閣寺と宇治市の平等院鳳凰堂の周辺での新たなビル建設計画、広島市では、原爆ドームの周辺で建設中のビルに伴う世界遺産の景観に及ぼすインパクトの問題である。 

 各物件に共通する問題点は、世界遺産登録申請時における核心地域(コア・ゾーン)と緩衝地帯(バッファー・ゾーン)の設定である。なかでも、バッファー・ゾーンの設定がなかったり、或は、範囲が狭かったり、或は、規制が緩いことを利用した新たな建築物の建設が問題を引き起こしている。

 原爆ドームの場合も、広島市が景観条例を制定し、建物の高さや色、広告などのガイドラインを設けているものの、都市計画法や建築基準法上では問題ないといった矛盾が生じている。開発事業者の良識もさることながら、世界遺産地のコアー・ゾーンとバッファー・ゾーンのあり方は、単に世界遺産登録申請の為のゾーニングではなく、世界遺産地の都市・建築関係法にもその考え方を反映し、実効性の高い法的担保措置を講じるべきである。

 

 新たな地域づくりやまちづくりの視点や手法



 これらの問題が解決され、保護と振興のバランスが図られ、持続可能な日本の地域づくりやまちづくりの発展につながれば、世界遺産登録運動は、新たな地域づくりやまちづくりの視点や手法としても、大変、有意義であると思う。

 世界遺産登録を視野に、登録後に生じであろう諸問題を総点検し、事前対策と危機管理への対応策が必要である。

身近かな自然環境や文化財について世界遺産の登録要件をどこまで満たしているか総点検してみてはどうだろうか。世界遺産の可能性があるものを新たに発見できるかもしれない。




古田 陽久(ふるた・はるひさ)

世界遺産総合研究所所長。専門分野は、世界遺産論、危機遺産論、日本の世界遺産、世界無形文化遺産研究、文化人類学、国際観光学、国際理解教育など。1974年慶応義塾大学経済学部卒業、同年、日商岩井株式会社入社、1989年同社退社。1990年シンクタンクせとうち総合研究機構を設立、1998年世界遺産総合研究所を設置、所長兼務。「世界遺産化可能性」などの調査、「世界遺産講座」の出講、最近では国際交流やヘリティッジ・ツーリズムなどにも注力している。著書は、「世界遺産学のすすめ一世界遺産が地域を拓く一」、「世界遺産データ・ブック」、「世界遺産事典」、「世界遺産ガイド」シリーズ、「誇れる郷土ガイド」シリーズなど多数。広島市佐伯区在住。










参考文献
世界遺産学のすすめ-世界遺産が地域を拓く-
世界遺産ガイド-特集 第29回世界遺産委員会ダーバン会議-
世界遺産データ・ブック-2006年版-
世界遺産マップス-2006改訂版-
世界遺産ガイド-世界遺産条約編-
世界遺産ガイド-図表で見るユネスコの世界遺産編-
世界遺産ガイド-世界遺産の基礎知識-
世界遺産事典-812全物件プロフィール-2006改訂版
世界遺産キーワード事典
世界遺産入門-過去から未来へのメッセージ-
世界遺産学入門-もっと知りたい世界遺産-
世界遺産ガイド-自然遺産編-2006改訂版
世界遺産ガイド-自然景観編-
世界遺産ガイド-自然保護区編-
世界遺産ガイド-文化遺産編-2006改訂版
世界遺産ガイド-危機遺産編-2006改訂版
世界遺産ガイド-日本編-2006改訂版
世界遺産ガイド-日本の世界遺産登録運動-
誇れる郷土ガイド-全国47都道府県の誇れる景観編-
誇れる郷土ガイド-国際交流・協力編-
誇れる郷土ガイド-全国の世界遺産登録運動の動き-









世界遺産と総合学習の杜に戻る
シンクタンクせとうち総合研究機構のご案内に戻る
世界遺産総合研究所のご案内に戻る
出版物のご案内に戻る
出版物ご購入のご案内に戻る
世界遺産情報館に戻る